昭和四十一年三月十日 朝の御理解

 この頃から、久留米の高田さんがお参りになっておられますが、だいたい宮の陣の教会のご信者さんです。いろいろお願いごとで参ってみえる。おかげを頂いたお礼のあった後に、「一反ばかり畑をあけております。つきましては、そこに何を植えたならよとしゅうございましょうか」といわれる。こっちは百姓じゃなかですからね、この頃、何ば蒔かなんかということすら知らん。今頃は何がよございましょうかというお伺いがありましたから、神様にお願いさせてもろうたら、神様から頂くことが「白いもの」と頂いた。まるで、見当がつかんですから、「だいたい、今頃から蒔くものには何と何がありますか」と申しましたら、「まあ、にんじんか大根です」と言われる。「なら、大根がよかろう」と申しました。
 お互いですね、例えば、神様の御神意を頂いて、右にする、左にするということは、そうすれば必ず、例えばなら、神様から頂いた白いものである大根を蒔いたから、それが立派にできる、それが高かったというようなことが、そういうことが頂きたいために、御神意を伺うのは間違いだと思うですね。
 ただ、間違いのない御神意のままに動かして頂くということなんだ。御神意のままに動かして頂く、自分の我情じゃない、自分の思いじゃない、御神意のままに動かして頂くというのが有り難いのだ。御神意のままにおかげを頂いていくということがです、たとえ、そのことが、よかった、悪かった、高かった、安かったというようなことではなくてです、神様の心のままに自分が動いておるということが、ここに結論されることは、それならば必ずおかげになるということです。
 それがいつおかげになるか、それもわからん。目先の方にはひょっとすりゃ損になるかも知れん。この頃、久富勇さんのほうれん草のお許しを頂いてから、ところが、よそは立派に出来たんだけれども、あそこんとに限って生えなかった。そういうこともあるのだす。お願いをさせて頂いて、そして、任せたにもかかわらず、よそんとは立派に生えたんだけれども、勇むさんところだけは生えなかった。
 そこのところを、日頃に信心で、これはお願いをして、こうなったのであるから、神様の御都合に違いはない。損がいくならめぐりのお取り払いとして、
お礼を申し上げて、またそこに、蒔かれる、今度は見事に生える。ところが、そん時には、よそさんが出されたその合間だったから、もちろん、それが大変な高値であったということ。その高値であったというおかげのところまでには、そういうところがあっとるです。「御神意頂いてから蒔いたっちゃけんが、ちゃんとお願いしてからしたっちゃけんが、あんまり当てにはならん」。当てにならんというものじゃない、御神意を伺うということは。そりゃなるほど、私はここで、いろいろと御神意をいただきます。また、みなさんが御神意を伺われます。まるっきり神様を試すというよりも、私を試すようにしてから、お伺いに来られる方があります。
 子どもが恵んだばっかりに、まあだ、十ヵ月もあるとに、お名前を頂きたいというてから、まあだ、おかげでここで、おなごの名前ば頂だいとったばってんが男が生まれたというようなことは、まあだ一回もない。しかし、そういうようなこでね、信心をそういうものだと思うたら、大間違いですよ。
 そりゃある意味合いで、神の権威にかけてとこういう。これくらい、実を言うたら御無礼なこと、失礼なことはないと思うですね。けれども、私は「そげな御無礼なことがあるか、そげな失礼なことがあるか」とは、まあだ言うたことないです。もちろん、高木さんあたりでもそうでしょうが、長年信心もしておられるし、ここに参って来られてから、どういうところかということも分かっておられるにもかかわらず、一反ばかりの田をあけておるから、何を蒔かせて頂こうかといううて、私が百姓したこともないから、何を蒔かなければんらんか分からんじゃないですか。だから、ほんと言うなら、「先生、いまから、まだにんじん、大根が蒔かなければなりませんが、今度はどっちを蒔かせて頂こうか」と言うなら話は分かるけど、まあ、神様から「白いもの」と頂いたから、それでも、私には分からんのだけれども、そこで、「今から蒔かせて頂くのにどういうものがあるか」「今から蒔くのはにんじんと大根でございます」と言うけんで、「にんじんな赤かけんで、白かつなら、大根がよかばい」と言うた。
 そういうようのことにです、私は神様の有り難さを感じるようなことでは、もういよいよ、信心の堕落だと思うですね。まあ、言うならば、外道と言うてもよいですね。ところが、私どもが対象としておるところの神様はです、天地を一目に見てござるという神様であり、いうなら、私どもの本当の幸、不幸の鍵をにぎってござる神様であるから、ここでは、今、申しますような意味合いでならば、どのくらい、生まれる前からお名前頂いた人があるかわかりませんよね。けれども、神様が先に下さる方があるです、お伺いせんでも。例えば、中村さんところなんかがそうです。久留米の佐田さんなんかもそうです。それはまだ限りがありません。それはどういうような御都合、御神意かわかりませんが、そういうようなことに神様の有り難さを感じるような信心は、私はこれはある意味合いで外道だと思います。
 忘れ物なんかでも、どこを探したらいいじゃろうかというような、お伺いをする人がある。なくなっとるとが出てくればよかろうもん。「出てきますように」という願いならまだいい。二、三日前、北野の中村という初めて参って来た人がある。どこに参ったっちゃそげん言いなさるから、今日は出て来ましたと言われる。「最近、私の家の中が、とにかく親子けんか、夫婦けんかで、いつも家の中が乱れに乱れとる。ところが、親戚の誰彼が椛目の金光様に参ってから、家の中が乱れるごとというて願をかけとるげな、どうぞ、今日は願解きに来ました」と言わっしゃった。おもしろいことを言う人があるでしょう。
 神様が願いに任せて、どげな願いでも「だれだれの家が憎うしてたまらん。だから、はがいい、だから、いっちょ、あそこの家が乱れるごとお願いして下さい」と言うたら、「ああ、そうか」と言うてから、この神様は聞きなさったと言うんです。そういう願をかけてある。だから、今日は私は願解きに来ました。「どげなふうにして解くの」と言うた。結んだんでばしあるごと。ちょうど、その時誰だったか参り合わせたが、その人が「そのようなことは金光様ではありません」と説明してくれた。
 そこの娘がノイローゼになって、椛目でそげなおかげが頂かれるということを聞いてから、お願いに来た。そのお願いに来たのが、二、三日前に来た兄弟のうちかなんかだった。それがその「私の家が乱れるごと」と、だから、誰が乱そうというても、乱さなければいいじゃないか。例えば、あんたが親子けんかする、夫婦けんかするというけれども、主人がどげん言うたっちゃ、あなたがにこにこしとけばいいじゃないか。息子がどげん言うたっちゃあなたがにこにこしとけばいいじゃないか。それに息子がこう言えば、あなたがこう言う。主人がこう言えば、あなたがこう言うところに家の中が乱れ、または、けんかが絶えるはずはないじゃないですか。金光様のご信心はね、というて、私が金光様のご信心のことを話したけれども、世の中には、やはりそういうような信心が信心として幅をきかせておるからですね。
 ほんとに神様の御神徳ということの中には、そうした、先の先まで見とおして下さる働きもありますもんですから、それを自分たちの便利のために乱用しようというような信心は、私は外道だと思うです。もう最低だと思うです。だから、金光様のご信心は先のことがわかるのじゃないです。手元のところ、自分のこと、もうこれなら一番はっきり分かる、そのことを見極めさせて頂くことを教えて下さるのですよ、神様は。そこんにきが間違えちゃいかんと思うです。
 昨日の高田さんのお届けじゃないですけれども、神様が大根を蒔けとおっしゃったけんで、大根のちがわんごと、高うなるに違いなかというて、手も入れなかったり、努力もしなかって、よかろうはずがありません。
 一番間違いのないこと、一番分かることは御理解を聞けば聞くほど、み教えを頂けば頂くほど、自分自身がはっきり分かってくる。そして、なるほど、これではおかげが受けられんということが、分かってくる。そこで、おかげの受けられるあり方に、こちらがならして頂く努力をすること、精進をすることが信心なんです。
 もう、ほんとに私は時々迷惑することがあるです。「もう、椛目の先生はポクポク当てらっしゃる」という人があるです。もう、私自身がそうなんです。私自身がただ、いよいよ本当の自分というものを分からせて頂く。そして、その心に取り組ませて頂いてから、そこに精進させてもらう、その自分自身というものがなかなか分からん。けれども、はっきり分かるのは自分の身を削るということ。それは鉛筆の芯を削るようなもの。自分の身を削る、本気で修行させて頂くとです、芯が出てくる。なるほど、こういう信者はおかげが受けられるようなことが分かるから、出てきた芯を磨きもすりゃ改めてもいこうとする、そういう道を教えて下さるのが信心だと。
 何か知らんけれども、お互いがほんとの幸せを求めての信心じゃなからないかんです。その幸せの握ってござる神様ですから、その神様のお心に添わせて頂かなければ幸せにはなれない。
 例えば、大学なら大学の受験をする。それに自分の能力というか学力というのは上中下と言うぴならばです、下だけの頭しかなかとにです、中どころの試験を受けて、そこに通るのがおかげのごと思うとる。下がたしかなかなら、下のところに受験させてもらわないかん。中がたしかなかなら、中のところに受験させてもらわないかん。上がただと、自身があるなら、そこのところに受験させてもらわなければいけない。自分の持っておる力が十分に発揮出来ることを願わせて頂かなでけん。上だから、中だから、下だからというて幸、不幸に関係があることはない。頭がよいから幸せになるということはない。頭が悪いから幸せになれないこともない。
 そういう自分の頂いておるものを、ほんとに発揮させて頂いてこそ本当のおかげ、本当の自分という者のそれを発揮させて頂くことのそれを十分に発揮させて頂ける道を教祖は教えて下さっておる。無学な者は無学な者、学のある者は学のあることをおかげ下さってある。それを十分に生かすことを教えておられる。下がたしかなかとに、上のところば受けてからでけじゃった。神様ども怨むものがある。もう一つ信心ということがです、例えば、先のことが分かることではなくて、手前のこと、自分のことが分かること、信心とは。それを信心によって自分でも気づかなかったことを、自分でもはっきりと分からせて頂ける、そういう道を私は、教祖の神様の神様は悟られたんだと思います。
 教祖の神様の場合でもですね、神様から頂になっておることが、例えば、金光教に予言が少ないと言われておりますが、予言的なことやらは、もう、非常に少ないです。実意丁寧神信心一筋でおかげが、それこそ夢にも思わなかったおかげに展開していっておるだけです。金光大神なんかを拝読させて頂きますと神様から頂いておられることを、例えば、一年でおかげになるとおっしゃられていることが、三ヵ月でおかげになっておられるです。言わば、反対で、三ヵ月でおかげになっておられます。いかに、一年かかるようなことでも、教祖の神様が実意丁寧な信心をなさって、それだけ、おかげが早くなったとも考えられますけれども、今日の御理解聞くと、そげなことはあんまり当てにはならんということです。そんなことは問題ではない。問題は白真剣に自分の手元のところを、しっかり見極めさせて頂いて、自分という者の実意の程度というものをはっきり分かり、いよいよ、実意にならせて頂くことに精進させて頂く、それには自分という者が本気に分からなければならない。だから、人間が変わっていく。改まっていける。磨いていける。そこからの展開というものは、それこそ、夢にも思わなかった。なるほど、神様がこういうおかげを下さることのためであったというようなことになってくるのです。そういう私はおかげを頂かして頂くために、いよいよ先のことより手前のこと、向こうのことより、自分のことを本気で分からせて頂いて、そこに取り組んでいく信心をさせて頂かなければならない。